展覧会の構成
1章 国民的風景画家
 終戦前後に、父、母、そして弟が亡くなって妻以外の身寄りを失い、また、空襲によって自宅も失った東山は、《残照》を発表する直前、人生のどん底にいました。写生のために千葉県鹿野山の山頂に座り、沈みゆく太陽が、遙かに連なる峰々を刻一刻とさまざまな色に染めていくさまを見つめていた画家は、この自然が作り出す光景と自分の心の動きが重なり合う充実感を味わいます。終戦直前、死を覚悟した時に見た平凡な風景が生命に満ち溢れて輝き、何よりも美しく感じた体験もあり、以後気負うことなく素直な目と心で自然を見つめ、そこに現われた生命に自分の心を重ねた風景画を描くようになります。
 日本中を写生して回り、写生地の特徴を残しつつも普遍化された東山の作品は、日本の風景に親しんだ人々にとってはよく見知っているもののように感じられ、素直に心を委ねることの出来る風景画となっており、やがて「国民的風景画家」あるいは「国民的画家」と呼ばれるようになります。
2章 北欧を描く
 昭和37(1962)年東山は北欧の旅に出ます。
 東京美術学校在学中に初めて接した、厳しい自然に溢れる木曽路など、北の山国への旅は、先祖が瀬戸内海に浮かぶ島の出で、自身も太平洋側の港町に生まれ育った東山にとって、その対極にあるような未知の世界でした。また、ドイツで美術史を学び、実際に西洋美術に触れる中で、感覚的で明るい南の文化に魅力を感じつつも、精神的で静かな北の文化に、より親近感を覚えてもいた。東山は、《残照》、《道》の発表以来、一躍人気作家となったにもかかわらず、その安定した温かい場所から抜け出ようと考えていたのです。
 果たして北欧の風景は想像通りのものであり、東山の焦点にぴったりと合いました。帰国後連作を発表すると、幻想的で清澄な画面が評価され、そこに青い色が多用されたこともあって「青の画家」というイメージがここに生まれました。
3章 古都を描く・京都
 京都は、北欧に旅立つ以前から、作家の川端康成より、急速に失われつつあるかつての姿を画面に描き止めるよう勧められており、また、東山自身にとっても、神戸時代以来たびたび訪れた懐かしい街でした。帰国後、皇室から依頼された新宮殿の大壁画制作の仕事は、設置される場所柄、日本的なものを前面に押し出した図柄でなくてはならなかったため、そのモティーフ捜しをしていると、どうしても、日本古来の文化の粋が集まる京都を避けて通ることが出来なかったこともあり、ついに日本の古都を代表するこの町を描くことに着手します。
 新宮殿の大壁画が完成したのと同じ年である昭和43(1968)年、「京洛四季」展で連作が発表され、大壁画と共に、北欧シリーズとは全く違う、画家の大和絵的側面が現れた日本回帰の作風として、東山の画風に新たな魅力を加えることとなりました。
4章 古都を描く・ドイツ、オーストリア
 京都シリーズを公表した翌年東山は、ドイツ、オーストリアへと旅立ちます。ドイツは東京美術学校卒業後から約2年間留学していたため、京都と同様に懐かしい町でした。人が長い年月をかけて介入することにより、親しみやすく雅やかにされた自然の風景を描いた京都の連作と比較して、この、ドイツ、オーストリアの連作は圧倒的に建物や街並みを描いたものが多い。それは、東山が、頻繁に建て替えられ、作り変えられる日本の街並みからよりは、人里近くの自然の方に、日本人が長年培ってきた文化的な営みを感じることが出来、一方、手つかずの自然からよりは、長い年月人が生活し続けるドイツ、オーストリアの堅牢な石造りの建物や街並みに、古都の魅力である文化の蓄積を感じ取った故ではないでしょうか。自然風景を主に描いてきた画家にとっては、やや異色な連作ですが、これもまた、東山の心を通わせることの出来る風景画に違いなく、その魅力の幅を広げました。
5章 唐招提寺御影堂障壁画
 昭和46(1971)年東山は熟慮の末、前年の暮れに奈良の唐招提寺から受けた、開山・鑑真和上の像を安置する御影堂障壁画制作と御厨子内部装飾の依頼を正式に受諾しました。大和朝廷の要請を受け、5度の渡航失敗を経て失明するも、6度目にして漸く日本の地に辿りついた鑑真。その鑑真が見たかったであろう日本の風景を抽出した《山雲》(山の代表)を上段の間床及び違棚の貼付絵と襖絵に、《濤声》(海の代表)を宸殿の間襖絵に、それぞれ描き、第一期の仕事として50年に奉納しました。そして、和上の御厨子を取り囲むように設置される松の間には、出身地である揚州の風景を襖に描いた《揚州薫風》を、両隣にあたる梅の間と桜の間には、第5回渡航に失敗した和上が1年間滞在した桂林の風景を襖に描いた《桂林月宵》と、中国の景勝地を代表する黄山の風景を襖に描いた《黄山暁雲》をそれぞれ配し、第二期の仕事として55年に奉納しました。56年最後に残った御厨子内部に、和上が初めて立った日本の土地である鹿児島の秋目浦風景を描いた《瑞光》を奉納した時は、構想から10年の歳月が流れていました。
 《山雲》、《濤声》の制作にあたっては、これまでに多くの日本の山と海を写生し、絵画化もしていたにもかかわらず、改めて日本中を取材して回ったといいます。また、中国の取材は53年の日中平和友好条約前であったため難航しましたが、3年に亘って3回訪問して目的を達成しました。画家人生で初めての水墨画にも挑戦し、《唐招提寺障壁画》の制作は、東山に、もう一つ重要な実りをもたらしました。それは「白馬のいる風景」という、これまでの作例にはない全く新しいモティーフでした。障壁画制作のため、鑑真和上の生涯や唐招提寺についての研究、構想を練ることに没頭した昭和47(1972)年にだけ、画面上を駆けたこの白馬について、東山は後に、自らの「祈り」の現れであろう、と、述べています。
6章 心を写す風景画
 白馬に導かれるように《唐招提寺障壁画》を完成させた東山は、この時はじめて、描くことは「祈り」であり、それであるならば、そこにどれだけ心を籠められたかが問題で、上手い下手はどうでもいいことなのだと思うに至りました。信じがたいことではあるが、これまでずっと自分には才能がない、と、思い続けていた画家は、やっと、自分が描き続けることの意味を悟り、価値を見出すことが出来たのです。より一層多忙を極め、70歳を超えた東山は、制作のために新たに写生に出ることもむずかしくなりましたが、これまでに見つめてきた無数の風景と描いてきたスケッチをもとに、迷いなく制作を続けました。そうして生み出された作品は、もはや日本でも外国でもなく、特定の地から離れ、自らの心の中に形作られた風景を描いたものとなり、東山の筆は画面の中を鮮やかに、自由自在に動き、輝きを増していきました。
 東山芸術の集大成として、凝縮された自然と自らの生命を描きつけた作品群を残し、東山魁夷は、平成11(1999)年90歳で惜しまれつつその生涯を終えました。しかし、その芸術は未だに、日本だけでなく世界の人々の感動を呼び続けています。
Copyright © 2018 Nikkei Inc. All rights reserved. | サイトポリシー
展覧会の構成
1章 国民的風景画家
 終戦前後に、父、母、そして弟が亡くなって妻以外の身寄りを失い、また、空襲によって自宅も失った東山は、《残照》を発表する直前、人生のどん底にいました。写生のために千葉県鹿野山の山頂に座り、沈みゆく太陽が、遙かに連なる峰々を刻一刻とさまざまな色に染めていくさまを見つめていた画家は、この自然が作り出す光景と自分の心の動きが重なり合う充実感を味わいます。終戦直前、死を覚悟した時に見た平凡な風景が生命に満ち溢れて輝き、何よりも美しく感じた体験もあり、以後気負うことなく素直な目と心で自然を見つめ、そこに現われた生命に自分の心を重ねた風景画を描くようになります。
 日本中を写生して回り、写生地の特徴を残しつつも普遍化された東山の作品は、日本の風景に親しんだ人々にとってはよく見知っているもののように感じられ、素直に心を委ねることの出来る風景画となっており、やがて「国民的風景画家」あるいは「国民的画家」と呼ばれるようになります。
2章 北欧を描く
 昭和37(1962)年東山は北欧の旅に出ます。
 東京美術学校在学中に初めて接した、厳しい自然に溢れる木曽路など、北の山国への旅は、先祖が瀬戸内海に浮かぶ島の出で、自身も太平洋側の港町に生まれ育った東山にとって、その対極にあるような未知の世界でした。また、ドイツで美術史を学び、実際に西洋美術に触れる中で、感覚的で明るい南の文化に魅力を感じつつも、精神的で静かな北の文化に、より親近感を覚えてもいた。東山は、《残照》、《道》の発表以来、一躍人気作家となったにもかかわらず、その安定した温かい場所から抜け出ようと考えていたのです。
 果たして北欧の風景は想像通りのものであり、東山の焦点にぴったりと合いました。帰国後連作を発表すると、幻想的で清澄な画面が評価され、そこに青い色が多用されたこともあって「青の画家」というイメージがここに生まれました。
3章 古都を描く・京都
 京都は、北欧に旅立つ以前から、作家の川端康成より、急速に失われつつあるかつての姿を画面に描き止めるよう勧められており、また、東山自身にとっても、神戸時代以来たびたび訪れた懐かしい街でした。帰国後、皇室から依頼された新宮殿の大壁画制作の仕事は、設置される場所柄、日本的なものを前面に押し出した図柄でなくてはならなかったため、そのモティーフ捜しをしていると、どうしても、日本古来の文化の粋が集まる京都を避けて通ることが出来なかったこともあり、ついに日本の古都を代表するこの町を描くことに着手します。
 新宮殿の大壁画が完成したのと同じ年である昭和43(1968)年、「京洛四季」展で連作が発表され、大壁画と共に、北欧シリーズとは全く違う、画家の大和絵的側面が現れた日本回帰の作風として、東山の画風に新たな魅力を加えることとなりました。
4章 古都を描く・ドイツ、オーストリア
 京都シリーズを公表した翌年東山は、ドイツ、オーストリアへと旅立ちます。ドイツは東京美術学校卒業後から約2年間留学していたため、京都と同様に懐かしい町でした。人が長い年月をかけて介入することにより、親しみやすく雅やかにされた自然の風景を描いた京都の連作と比較して、この、ドイツ、オーストリアの連作は圧倒的に建物や街並みを描いたものが多い。それは、東山が、頻繁に建て替えられ、作り変えられる日本の街並みからよりは、人里近くの自然の方に、日本人が長年培ってきた文化的な営みを感じることが出来、一方、手つかずの自然からよりは、長い年月人が生活し続けるドイツ、オーストリアの堅牢な石造りの建物や街並みに、古都の魅力である文化の蓄積を感じ取った故ではないでしょうか。自然風景を主に描いてきた画家にとっては、やや異色な連作ですが、これもまた、東山の心を通わせることの出来る風景画に違いなく、その魅力の幅を広げました。
5章 唐招提寺御影堂障壁画
 昭和46(1971)年東山は熟慮の末、前年の暮れに奈良の唐招提寺から受けた、開山・鑑真和上の像を安置する御影堂障壁画制作と御厨子内部装飾の依頼を正式に受諾しました。大和朝廷の要請を受け、5度の渡航失敗を経て失明するも、6度目にして漸く日本の地に辿りついた鑑真。その鑑真が見たかったであろう日本の風景を抽出した《山雲》(山の代表)を上段の間床及び違棚の貼付絵と襖絵に、《濤声》(海の代表)を宸殿の間襖絵に、それぞれ描き、第一期の仕事として50年に奉納しました。そして、和上の御厨子を取り囲むように設置される松の間には、出身地である揚州の風景を襖に描いた《揚州薫風》を、両隣にあたる梅の間と桜の間には、第5回渡航に失敗した和上が1年間滞在した桂林の風景を襖に描いた《桂林月宵》と、中国の景勝地を代表する黄山の風景を襖に描いた《黄山暁雲》をそれぞれ配し、第二期の仕事として55年に奉納しました。56年最後に残った御厨子内部に、和上が初めて立った日本の土地である鹿児島の秋目浦風景を描いた《瑞光》を奉納した時は、構想から10年の歳月が流れていました。
 《山雲》、《濤声》の制作にあたっては、これまでに多くの日本の山と海を写生し、絵画化もしていたにもかかわらず、改めて日本中を取材して回ったといいます。また、中国の取材は53年の日中平和友好条約前であったため難航しましたが、3年に亘って3回訪問して目的を達成しました。画家人生で初めての水墨画にも挑戦し、《唐招提寺障壁画》の制作は、東山に、もう一つ重要な実りをもたらしました。それは「白馬のいる風景」という、これまでの作例にはない全く新しいモティーフでした。障壁画制作のため、鑑真和上の生涯や唐招提寺についての研究、構想を練ることに没頭した昭和47(1972)年にだけ、画面上を駆けたこの白馬について、東山は後に、自らの「祈り」の現れであろう、と、述べています。
6章 心を写す風景画
 白馬に導かれるように《唐招提寺障壁画》を完成させた東山は、この時はじめて、描くことは「祈り」であり、それであるならば、そこにどれだけ心を籠められたかが問題で、上手い下手はどうでもいいことなのだと思うに至りました。信じがたいことではあるが、これまでずっと自分には才能がない、と、思い続けていた画家は、やっと、自分が描き続けることの意味を悟り、価値を見出すことが出来たのです。より一層多忙を極め、70歳を超えた東山は、制作のために新たに写生に出ることもむずかしくなりましたが、これまでに見つめてきた無数の風景と描いてきたスケッチをもとに、迷いなく制作を続けました。そうして生み出された作品は、もはや日本でも外国でもなく、特定の地から離れ、自らの心の中に形作られた風景を描いたものとなり、東山の筆は画面の中を鮮やかに、自由自在に動き、輝きを増していきました。
 東山芸術の集大成として、凝縮された自然と自らの生命を描きつけた作品群を残し、東山魁夷は、平成11(1999)年90歳で惜しまれつつその生涯を終えました。しかし、その芸術は未だに、日本だけでなく世界の人々の感動を呼び続けています。
Copyright © 2018 Nikkei Inc. All rights reserved. | サイトポリシー